●ゴリオ爺さん(下)
●バルザック 作、高山 鉄男 訳
●岩波文庫 262ページ
『ゴリオ爺さん(下)』 を読み終えた。
上巻の最後に企てられたヴォートランの計画は彼の逮捕によって阻まれる。
その計画とは、父に見捨てられたヴィクトリーヌの兄を決闘で殺害し、遺産をヴィクトリーヌのものとすること。
そして、ヴィクトリーヌとラスティニャックを恋仲にして遺産を手に入れることであった。
ヴォートラン逮捕の一件は下巻・第2話の大きな節目に当たると考えられる。
その後、ラスティニャックはゴリオ爺さんの下の娘 デルフィーユ(人妻)と恋仲になり、ゴリオ爺さんとも親子のように親密な仲となる。
ここまで読んできて、当時のフランスの上流階級はどうなってんのよ!という疑問が湧いてきた。
人妻が平然と愛人を作り昼間っから情事にふけり、夜は舞踏会で派手に遊んでも旦那は知らん顔なんだもの。
まあ、そういう時代もあったということで・・・日本でも同じか。
それはさておき。
デルフィーユはその育ちのよさ、頭のよさ、青年特有の純粋な情熱から、社交界に華々しいデビューを果たす。デルフィーユも彼を心から愛し、彼女自身も社交界に受け入れられる幸運に恵まれる。
しかし、ゴリオ爺さんの二人の娘はそろって家庭での金銭トラブルを抱えてしまい、ゴリオ爺さんを困らせる。
もう娘に出してやる金を一銭も持たないゴリオ爺さん、学生の身分で金とは無縁のラスティニャックには彼女達を救う術はない。
娘達が夫から受ける悲惨な仕打ちに抗えないゴリオ爺さんは病に臥してしまう。
愛する二人の娘の姿をついぞ見ることなく、隣人のラスティニャックと彼の友人で医学生のビアンションに看取られて最期を迎えるゴリオ爺さん。
そのゴリオ爺さんが死に際に語る言葉はまさに名言と言えよう。
このゴリオ爺さんの言葉はこの物語のなかでは特に重要で、読むものに共感を呼び起こす。
「わしにはちゃんとわかっておった。子供ってのはどんなものか、死んでみなけりゃわかりゃせんのじゃ。ああ、ウージェーヌさん(ラスティニャックのこと)、結婚なんかするもんじゃない、子供なんか、もつもんじゃないな。子供たちは命を与えてやっても、お返しには死をくれてよこす。この世に命を受けさせてやったのに、このよからこっちを追い出そうとする。・・・」
また、ゴリオ爺さんの姿を見てつぶやくラスティニャックの言葉も心を打つ。
「美しい魂はこの世に長くとどまることができないのだ。実際、偉大な感情が、こせついた、卑小な、そして浅薄な社会などとかかりあいをもてるはずがないではないか」
「神様はきっとおられる。おお、そうだとも。そうして僕らのためによりよい世界を作っておおきになったのだ。でないとすれば、この世界は無意味じゃないか。・・・」
このくだりは、『カラマーゾフの兄弟』でイワンが語る「謀反」とは反対の意味で通ずるものがある。イワンは神の存在はありえないと言った。
【所感】
ゴリオ爺さんの生き様、死に様を見て、子を持つ親として、特に娘を持つ親として、「親とはどうあるべきか」、また、「息子や娘としてどうあるべきか」ということを強く考えさせられた。
娘を持つお父さん必読の書であることは間違いないです。
--- wikipedia ---
ゴリオ爺さん
2009年8月15日土曜日
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